【番町】武家屋敷から邸宅街となり、多くの文化人が暮らした街の歴史を訪ねる
閑静な住宅街として知られる番町エリアは千代田区一番町から六番町の総称です。江戸時代には武家屋敷が建ち並び、明治維新後は政府の役人や家族が暮らす邸宅街に発展しました。その後、「英国大使館」など多くの大使館も進出し、外国人が集まるようになったことから、教会やミッション系の教育施設も増え、インターナショナルな雰囲気が漂う都内有数の文教エリアにもなりました。
また、皇居や千鳥ヶ淵など豊かな緑に恵まれたこの街には、小説家や作曲家、画家、歌舞伎役者など文化人にも愛され、多くの文化人がこの地に暮らしました。現在もこうした歴史を受け継ぎ、風格と気品があふれる番町エリアは重厚感のある街並みが広がる都内有数の邸宅街として知られています。
番町という地名の由来は、「江戸城」に入城した徳川家康が城の西側の守りを固めるために、この付近に「大番組」と呼ばれる旗本を住まわせたことに由来しています。設立された当初の大番組は一番組から六番組で構成されていたため、そこから一番町から六番町という地名が誕生しました。
現在の「千代田区立番町小学校」が建っている場所には、かつて江戸市中の消防や警備にあたった「定火消(じょうびけし)」の屋敷があり、その後、上野小幡藩の上屋敷となりました。
さらに、現在の四番町には旗本の井上信濃守清直(しなののかみきよなお)の屋敷もありました。井上信濃守清直は初代の外国奉行に任命され、米国駐日総領事ハリスをはじめ、諸外国使節の応接を担当、1858(安政5)年に締結された「日米修好通商条約」では幕府側の代表のひとりとして尽力しています。
明治になると番町周辺は中央官庁や皇居に近接しているという地の利と、広い面積を持つ武家屋敷の跡地があったことから、政府役人の官舎や華族の屋敷が建ち並ぶようになりました。
第3代、第9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋の邸宅は一番町に、日露戦争の日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎の邸宅は三番町に、満州事変の際に内閣総理大臣を務めていた若槻礼次郎の邸宅は四番町にありました。東郷平八郎の邸宅跡は「東郷元帥記念公園」として整備され、三番町と四番町の境の坂は「東郷坂」と名付けられるなど、現在も当時の面影を感じることができます。
また、1872(明治5)年には「英国公使館(のちの英国大使館)」が一番町に移転し、その後、多くの大使館が番町周辺に移ってきます。現在の「ベルギー大使館」も、外交官や内閣総理大臣を務めた加藤高明の邸宅跡地に建てられたものです。「英国大使館」の裏側には1900(明治33)年に津田梅子が「津田塾大学」の前身となる「女子英学塾」を創立しました。
明治時代から昭和初期の番町周辺には文化人も多く暮らしていました。小説家、劇作家、画家など多彩な顔をもつ武者小路実篤は一番町の生まれで、結婚後もしばらくは一番町の邸宅で暮らしていたといいます。歌人の与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も三番町に暮らし、その後四番町付近に移り夫婦で暮らすことになります。ここで創刊された雑誌「明星」からは北原白秋や石川啄木といった著名な詩人、歌人が輩出されました。
さらに、六番町には、歌舞伎の初代中村吉右衛門や初代市川猿翁、三代目市川猿之助などが暮らしていました。「荒城の月」や「花」を作曲した滝廉太郎、「からたちの花」や「赤とんぼ」などを作曲した山田耕筰も一番町に暮らしていたことがあります。1957(昭和32)年に制定された「千代田区歌」も山田耕筰が作曲したものです。
現在、番町周辺は「番町文人通り」と呼ばれ、ここに暮らした文化人を記したプレートが掲げられています。彼らの息吹を感じながらの文学散歩も心地よいひと時になるでしょう。
- 掲載日
- 2018/01/31
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