【Special Interview】戦後~高度成長期~バブル期 丹下健三が形にした、戦後日本の都市・建築

株式会社 丹下都市建築設計
会長 丹下 憲孝 氏 

野村不動産ソリューションズ株式会社
常務執行役員 原田 真治

戦後から今に至るまで、日本の都市と地域を彩る建築物を設計してきた建築家・丹下健三氏を創業者とする、丹下都市建築設計。前身の東京大学丹下研究室から始まり77年を迎え、数多くのプロジェクトに携わってきた同社は、都市計画と建築にどう向き合ってきたのでしょうか。今回から3回に渡り、丹下健三氏の息子である丹下憲孝氏に話を伺い、同社の都市計画と建築に込める思いや哲学を存分に語っていただきます。

第1回は日本の戦後から高度経済成長期、そしてバブル期において、同社の功績や作品が与えた影響、「世界のタンゲ」のDNAについて、野村不動産ソリューションズの原田真治が明らかにしていきたいと思います。

 

コンセプトは「都市と建築」、そして「伝統と創造」

原田 戦後から高度経済成長期において、貴社の建築設計はどのような役割を果たしてきたとお考えですか?

丹下 私の父であり、創業者の丹下健三の設計に対する考え方には、大きな柱が二つあります。
一つ目の柱は「都市と建築」です。建築は単体では存在し得ません。建築は都市と密接な関係にあるという考え方です。本人は「アーバニスト(都市を考える人)&アーキテクト(建築家)」を自称していました。
もう一つの柱は「伝統と創造」です。日本の伝統的な様式をモダンアーキテクチャーと融合させることに心血を注ぎました。
これらの思想は、これからご紹介する都市計画や建造物の設計に反映されています。

平和は創り出すものという思いを込め、広島に引いた軸線

インタビューに答える
丹下 憲孝 氏

原田 戦後の日本を語る象徴的な建築物として「広島平和記念公園」が挙げられますが、丹下健三氏はどのような思いで取り組んだのでしょうか?

丹下  丹下健三は大阪府堺市生まれ、小・中学校時代は上海と愛媛県今治市で育ち、高校は広島県の旧制広島高校へ通っていました。

戦前に丹下健三が多感な時期を過ごした広島には、第二次世界大戦で原爆が落とされ、繁華街として親しんできた街が消失してしまいました。そして、同時期には両親を戦争で亡くしたのです。平和の尊さを痛感した丹下健三の思いが、その後の広島平和記念公園の計画につながっています。

原田 この建築物はエリア全体に「軸線」の考えが採用されているようですが。

丹下 広島平和記念公園には、丹下健三が広島の都市に引いた「平和の軸線」があります。原爆ドームについて、当時は辛い記憶を呼び覚ますものでもあることから撤去すべきだという声も多くありました。けれども丹下健三はそれを退け、平和を訴えるためにあえて残し、原爆ドームから一直線上に慰霊碑と広島平和記念資料館を配置したのです。

2023年5月に開催されたG7広島サミットで、岸田首相は「平和記念公園を設計した丹下健三氏は、平和を創り出すとの願いを込め、原爆ドームから伸びる一本の軸線上に、慰霊碑や平和記念資料館を配置しました。平和の願いを象徴するこの軸線は、まさに戦後の日本の歩みを貫く理念であり、国際社会が進むべき方向を示すものです」と述べられました。

平和は当たり前のものではなく、創り出すものである。その思いを込めて、丹下健三は広島平和記念公園のプロジェクトに携わったのです。

インタビュアーを務めた
原田 真治

広島平和記念資料館(本館)竣工:1955年
(写真:©丹下健三)
広島平和都市記念碑から原爆ドームを望む
原爆ドーム、広島平和都市記念碑、広島平和記念資料館(本館)が「平和の軸線」上に配置されている
(丹下都市建築設計提供の図をもとに一部加工)

戦後の復興を象徴する、東京オリンピックの「道(みち)建築」

原田 復興の象徴として東京オリンピックがあり、その会場となる国立代々木競技場は丹下健三氏の最高傑作だと私は思っていますが、コンセプトなどをお聞かせいただけますか。

丹下 高度経済成長期に向かって日本が戦後復興をしていくにあたり、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博など、節目となる国際的なイベントに丹下健三は建築家として参画しました。

東京オリンピックに合わせて設計した国立代々木競技場は、日本建築の伝統的な「大屋根」を新しい形で表現したものです。オリンピックは平和の祭典であり、そこに建つ競技場は、一つの空間の下で観客とアスリートが刺激し合うべき、という考えで設計しました。

北側の観客からは南側の観客が、南側の観客からは北側の観客が一望でき、集まった観客が一体となって中央で競技をするアスリートを応援し、アスリートは観客の応援からエネルギーをもらう、そしてこのエネルギーが良い結果につながると考えたのです。

国立代々木競技場には第一体育館と第二体育館があり、渋谷駅と原宿駅の間に位置します。道によって大会の開催時と終了時に人々の自然な移動を促すよう都市的動線を考えた、いわば「道(みち)建築」の側面があるのです。

国立代々木競技場(右が第一体育館、左が第二体育館)
竣工:1964年(写真:©村井修)

バブル期以降の庁舎設計には、人々が集える「中心」となる広場を

原田 その後の1980年代のバブル期においては、建築設計の役割に何か変化が生じたのでしょうか?東京新都庁舎はその頃の作品ですね。

丹下 国の中心都市の再建が見えてきたある時期から、丹下健三は、地域のシンボルとなる「開かれた庁舎」をコンセプトに、庁舎の設計に携わるようになりました。「庁舎は、行政職員がただ単にそこで仕事をするためにあるのではない。都道府県民や市民、住民のためにある」という思いのもと、数多くの庁舎建築で「中心」となる広場を造り、人々が集えるようにしました。

第一本庁舎の足元に広がる都民広場(写真:©村井修)

原田 1957年に竣工した丸の内の旧都庁も、丹下健三氏の設計ですよね?

丹下 そうです。旧都庁の設計を担当させていただいた当社としては、新宿に建てられる新しい都庁の建築設計コンペでも、丹下の名にかけて決して負けられないという意識で臨みました。私が入社したのは丁度その頃で、大袈裟かもしれませんが「時代が変わった(丹下が終わった)とは言わせない」「生きるか死ぬか」という意気込みでした。

丹下健三が設計した旧都庁には広場があり、西新宿の都庁舎にもその思いが受け継がれました。高層ビル群の多い西新宿において高い建物ばかりでは、そこを訪れる人たちに圧迫感を与え、息苦しく感じてしまうでしょう。そこで、都庁の敷地を含む西新宿の新宿新都心地区の中央に都民が集える広場を造り、その都民広場を高層ビル群が囲む形にしたのです。

東京都庁(右が第一本庁舎、左が第二本庁舎)
竣工:1990年(外構:1991年)(写真:©村井修)

第一本庁舎は東京のシンボルとなる上部を双塔とする形状とし、第二本庁舎は階段状に下がっていく形状で第一本庁舎との一体感を演出しました。第一本庁舎の高さは243mです。当時から既に周りには高層ビルが建ち並び、圧迫感はどうしても生まれます。しかし、周りのビル群には、高層と言えるビルと、それより少し低めのビルがありました。都庁においても、この二つのスケール感を意識して街に馴染みながらシンボルとなる都庁舎を造ろうと考え、第一本庁舎と第二本庁舎のシルエットが生まれたのです。

原田 工業化社会から情報化社会に変わる中で、バーチャルリアルティの世界を彷彿とさせるような、独創性の高いファサードですよね。

丹下 プロジェクトチームのメンバーで議論を尽くし、庁舎のファサード(正面の外観)には、圧迫感を和らげ、スケール感をもたせる日本伝統の格子型のデザインを採用しました。その外観は過去と未来を繋ぐICチップのようにも見えます。

広島平和記念公園を例にお話しした「軸」は、実は都庁にもあります。都民広場と第一本庁舎、中央公園を一直線につなぐ軸です。その軸は、新宿という都市を貫く東京のシンボルとなっているのです。

大きく全体を見ながら、ディテールへこだわる設計感

原田 それぞれの事例において、共通して大きな視点での設計感をうかがえますが?

丹下 丹下健三は、大きく都市計画のスケールで考えているのかと思ったら、細かいところ、例えばドアのディテールを考えているということがよくありました。大きいところから細かいところまで、全てが丹下健三にとっては重要な要素だったのです。

例えば、当社に入社したばかりの社員は、丹下健三が建築物の形を吟味している様子を見て、建築は形から入って良いものだと思ってしまうのです。しかし、他の社員が見よう見真似で外形に偏ったプランを提出すれば、ものすごく細かい部分に数多くの指摘が入ります。丹下健三は常に全体を見ながらディテールにもこだわり、プラン・構造・形と、全てが一体となって見えた上で手を動かしていました。その様子が、普通の人には形から入っているように見えてしまうのでしょう。

頭の回転が速く、さまざまな物ごとを色々な角度で考えて、パッと一つの形にしていくその様子に、私は驚かされてばかりでした。

丹下健三は、1961年に東京湾に軸線を延ばす東京計画1960を発表しました。その計画の一部として、1996年に竣工したフジテレビ本社ビルがあります。コンセプト作りから現場監理まで、実務は私が行いましたが、父はフジテレビ本社ビルを「頭の中で長年考えてきた構想の集大成となった」と語り、私にはそれが非常に嬉しかったのを覚えています。

フジテレビ本社ビル(FCGビル)竣工:1996年
(写真:©村井修)

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このように日本の戦後復興期からバブル期までを駆け抜けてきた丹下都市建築設計は、創業者である丹下健三氏が退いた後、都市計画と建築にどのように向き合っていくのでしょうか。DNAとして引き継いだもの、時代を捉えた独自のエッセンスとして加えたものは何なのか、次回、第2回の記事で紹介します。

提供:法人営業本部 営業企画部

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