【上野毛・瀬田】景勝地として発展、長い歴史を誇る邸宅街、上野毛・瀬田
都内でも有数の邸宅街として知られる上野毛・瀬田。この街は江戸時代に景勝地として知られ、明治時代以降は別荘地としても人気を集めました。昭和に入ると邸宅街としての地位を確立し、美術館や史跡が集まる文化の街としての側面もあらわれます。こうした歴史と文化が上野毛・瀬田に漂う風格を醸し出しているのかもしれません。
上野毛・瀬田は、5世紀初めに造られた古墳とされる「野毛大塚古墳」が発見されており、古くから人々の暮らしが営まれていたことがうかがえます。その後、戦国時代初期には世田谷吉良氏の所領となり、江戸時代になると天領から井伊直孝の領地になりました。
今の「二子玉川」駅の北、東急田園都市線の線路沿いに建つ「行善寺」は1500年代に北条氏の家臣の一人である長崎伊予守重光親子がこの地に移住した際に、小田原から「道栄寺」を移転したことが発祥とされています。この移転時に、重光の法号であった行善の名を採り「行善寺」と名が改められました。
江戸時代になると、「行善寺」は多摩川の洪水を避けるため現在地に移転、眺望がよいことから、「玉川八景」や「行善寺八景」と呼ばれる行楽地として知られるようになりました。
明治になると、都心に近く、環境がよい上野毛・瀬田周辺は政財界の要人の別邸が多く建てられるようになりました。とくに1907(明治40)年に「玉川(現・二子玉川)」駅が、1929(昭和4)年に「上野毛」駅が開業し、都心との交通アクセスがよくなったことから、その後はさらに多くの別邸が誕生しています。また、「上野毛」駅の西側、環状8号から多摩川方面は国分寺崖線が続く高台にあり、現在は風致地区にも指定され、こうした別荘地としての歴史は、今に続く邸宅街の礎になりました。
衆議院議員などを務めた小坂順造氏もこの界隈に別邸を構えた要人の一人で、かつての住宅跡は世田谷区指定有形文化財「旧小坂家住宅」として現在も残っています。また、邸宅内に造られた庭園は現在、「瀬田四丁目旧小坂緑地」となり、紅葉や竹林、湧水と美しい自然が訪れる人々の目を楽しませています。
昭和に入ると、上野毛・瀬田一帯には文化施設が多く誕生しました。1935(昭和10)年、現在の「多摩美術大学」の前身である「多摩帝国美術学校」のキャンパスが造られ、多くの学生が集まるようになりました。当時の校舎は空襲により焼失してしまいましたが、1952(昭和27)年に木造校舎が再建され、1960(昭和35)年にはコンクリート造りの新本館も完成。現在も「多摩美術大学上野毛キャンパス」として使われています。
1977(昭和52)年には東急新玉川線(現・東急田園都市線「渋谷」駅から「二子玉川」駅間)の開通により、東急田園都市線は「渋谷」駅への乗り入れを開始。1978(昭和53)年からは営団地下鉄半蔵門線(現・東京メトロ半蔵門線)との直通運転が始まり、東京都心部にも直結されるようになっています。
上野毛には1960(昭和35)年に「五島美術館」も開館しました。東急電鉄の会長を務めていた五島慶太は多くの美術品を蒐集しており、美術館として公開することを構想していました。こうして誕生したのが「五島美術館」で、日本一といわれる古写経コレクションをはじめ、貴重な美術品を鑑賞することができます。
「岡本公園」の隣接地には三菱財閥を築いた岩崎家ゆかりの「静嘉堂文庫美術館」もあります。この美術館は岩崎家により収集された東洋古美術品を中心に所蔵しており、その中には世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝「曜変天目(稲葉天目)」など貴重なものも含まれています。隣接して1924(大正13)年に建てられた洋館(内部は非公開)や緑豊かな庭園もあり、見どころは豊富です。
- 掲載日
- 2017/01/30
本記事は、(株)ココロマチ が情報収集し、作成したものです。記事の内容・情報に関しては、調査時点のもので変更の可能性があります。