【鎌倉】受け継がれる歴史と美しい風景が人々を魅了する街、鎌倉
三方を山に抱かれ、南側を海に面した鎌倉は、「鶴岡八幡宮」や大仏など見どころも多く、古くから別荘地や邸宅街として人気を集めました。現在も豊かな自然に抱かれた鎌倉の街には長い歴史が醸し出す風情が漂い、行楽地としてにぎわっています。住宅地としても良好な環境に恵まれ、その人気は衰えることがありません。
12世紀の末、平家に代わって力を持つようになった源頼朝は、全国支配の拠点として鎌倉を選びました。これ以降、鎌倉は歴史上極めて重要な土地として知られるようになります。鎌倉は東と西、そして北の三方を山に囲まれ、南は海になっており、陸路で鎌倉に向かうためには切通しと呼ばれる狭い山間のルートしかありません。源頼朝はこうした鎌倉の地形に天然の要塞というメリットを見出し、鎌倉に幕府を設けたといわれています。
1180(治承4)年、源頼朝は由比ヶ浜にあった八幡宮を鎌倉の街の東側の丘陵地に移し、「鶴岡八幡宮」として鎌倉の街づくりの中心とします。「鶴岡八幡宮」から海に向かいまっすぐに「若宮大路」を造り、その後、「鶴岡八幡宮」の周囲に幕府の主要な施設が建てられていきました。この時誕生した区画は現在も鎌倉の街の基盤となっています。
「鶴岡八幡宮」は武家を中心に崇拝を集め、鎌倉幕府滅亡後、一時衰退するものの、江戸時代には再び幕府の庇護を受け、発展しました。現在の本殿は江戸幕府11代将軍であった徳川家斉により造営されたもので、国の重要文化財にも指定されています。今でも「鶴岡八幡宮」は初詣の参拝客が日本でもベストテンに入るなど多くの人々が訪れ、鎌倉のシンボルとして親しまれています。
自然の豊かな鎌倉は文学家や芸術家にも愛されました。とくに川端康成や大佛次郎など鎌倉に移り住んだ文学家は多く、やがて「鎌倉文士」と呼ばれるようになります。江ノ電「由比ヶ浜」駅近くにある「鎌倉文学館」では、こうした鎌倉にゆかりのある文学家の資料が多数展示されており、「鎌倉文士」の息遣いを感じることができます。
なかでも川端康成は鎌倉に暮らした文学家の代表的存在です。1947(昭和22)年から鎌倉の長谷に居を構え、鎌倉を舞台とした「千羽鶴」など多くの作品を生み出しました。彼の旧居は現在、「財団法人川端康成記念会」の「川端康成記念館」として使われています。
明治から昭和にかけて活躍した小説家の吉屋信子も同様に長谷に暮らしていました。彼女の死後、住居の建物は鎌倉市に寄贈され、その後、学習施設「吉屋信子記念館」として活用されることになります。鎌倉には文学家以外にも画家の平山郁夫や映画監督の小津安二郎など著名な芸術家が暮らしていました。彼らの足跡を訪ねて散策するのも楽しいひと時でしょう。
1889(明治22)年、現在のJR横須賀線の「大船」駅から「横須賀」駅間が開通し、「鎌倉」駅が開業すると、東京都心や横浜市中心部との交通アクセスの利便性がよくなったことから、海と山に恵まれた鎌倉は保養地として注目されるようになります。とくに旧前田侯爵家別邸として建てられた「鎌倉文学館」は規模が大きく、現在も残る洋風建築は国の登録有形文化財に指定されるなど貴重な存在です。
ほかにも、1924(大正13)年に富士製紙の社長であった村田一郎氏の邸宅として建てられ、優美な出窓を持つ洋館が旅館として使われている「かいひん荘鎌倉」や、中央に遊戯室を設け、その周囲に舞台や教室を置いた「梅鉢型園舎」と呼ばれる貴重な建物が残る「ハリス記念鎌倉幼稚園」など別荘地として栄えた歴史を感じられる建物が多数残っています。
昭和になると、鎌倉の西側の丘陵地に大規模な別荘地の開発が行われ、1929(昭和 4)年から鎌倉山として分譲が開始されました。この別荘地にはアクセス道路として「大船」駅から日本初の自動車専用道路が造られたことでも注目を集めました。戦後は、これらの別荘地は東京都心へのアクセスがよい住宅地として人気を集め、現在のように邸宅街としての地位を確立していきます。
- 掲載日
- 2016/04/28
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