【青山・表参道】日本有数のファッションタウン、その歴史を辿る
東京メトロ「表参道」駅から「明治神宮」に伸びる表参道とその周辺の青山一帯は、おしゃれなショップが集まり、最先端のファッションスポットとして人気を集めています。江戸時代のこのエリアは大名屋敷が広がっていた場所だったそうです。その後、「明治神宮」が誕生し、1960年頃からファッションタウンに進化してきました。今回は青山・表参道の歴史をたどってみましょう。
青山という地名は、江戸時代に大名を務めていた青山家の下屋敷があったことにちなんでいます。青山家は古くから徳川家に仕え、関ヶ原の戦いののち、大名になりました。
現在も南青山二丁目に残る「梅窓院」は、徳川家康の家臣であり、老中も務めた青山幸成の死後、青山家下屋敷内に建立されたことがはじまりです。「梅窓院」という寺の名前は青山幸成の戒名から、長青山という山号は青山幸成の側室の戒名から名づけられたといいます。
青山家は江戸時代の中ごろには現在の岐阜県郡上市周辺に当たる八幡藩を治めていたことから、「梅窓院」近くの「秩父宮ラグビー場」で「郡上おどり in 青山」が行われるなど、今も江戸時代の名残を感じることができます。
青山を代表する通りでもある表参道は「明治神宮」への参道として造られたものです。「明治神宮」は明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする神社で、1920(大正9)年に創建されています。
明治天皇は崩御後、京都市の「桃山御陵」に葬られましたが、国民からの要望もあり「南豊島御料地」があった場所に「明治神宮」が造営されることになりました。「明治神宮」は今も国内で最も多くの初詣客が訪れる神社でもあり、参拝客が絶えることはありません。
「明治神宮」には日本一の大きさを誇る大鳥居があり、ここから南北に参道が伸びています。この南参道に向かう通りが表参道で、通り沿いにはケヤキ並木が整備されました。大正時代に植えられたケヤキの多くは東京大空襲時に焼失したものの、戦後に植えられたケヤキが大きく成長し、現在も表参道のシンボルとして親しまれています。
「明治神宮」創建から3年後の1923(大正12)年に起きた関東大震災では、都内の木造住宅に大きな被害をもたらしました。関東大震災の復興を支援するため同潤会が設立され、東京都内や近県に多くの近代的なアパートが整備されました。
1926(大正15)年、表参道沿いに誕生した「同潤会青山アパート」もそのひとつです。「同潤会青山アパート」は鉄筋コンクリート造りで電気、ガス、水道、水洗式便所など当時最新鋭の機能を持ち、大いに注目を集めたそうです。
終戦後は所有と管理が東京都に引き継がれ、その後、さらに各住民に払い下げられました。個人の所有となったアパートの部屋は、1960年代以降、ブティックやギャラリーとして利用されるようになり、原宿・表参道地区が現在のようなファッションの中心地として発展するきっかけになりました。
「同潤会青山アパート」は老朽化のため、2003(平成15)年に解体。跡地には2006(平成18)年に「表参道ヒルズ」が誕生しました。「表参道ヒルズ」の一角には当時のアパートが再現され、この地の歴史を今に伝えています。
- 掲載日
- 2016/06/29
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