【本駒込・駒込】ソメイヨシノが誕生した武家屋敷街、本駒込・駒込
江戸時代の文京区本駒込や豊島区駒込周辺は武家屋敷が集まるエリアでした。また、「東京都立駒込病院」の建設中に見つかった「動坂遺跡」では縄文時代の住居跡や土器が見つかり、この地では古くから人々の営みがあったことが伺えます。現在もこのエリアには、長い歴史を感じられるスポットが残ります。
今の「東京都立駒込病院」の場所には徳川8代将軍吉宗が復活した鷹狩のための「鷹匠屋敷」があったことと、この一帯が「駒込なす」の産地であったことから、本駒込は「駒込富士神社」とあわせて「一富士二鷹三茄子」が揃う縁起のよい土地とされてきました。
また、現在の本駒込三丁目にある「吉祥寺」は、今の水道橋付近にあったものが1657(明暦3)年の大火で焼失し、この地に移転したものです。この寺には「旃檀林(せんだんりん)」と呼ばれる文教や漢字の研究所が設けられていました。「旃檀林(せんだんりん)」はその後、現在の「駒澤大学」や「世田谷学園」の発展へ繋がっています。一方、「吉祥寺」の建物は第2次世界大戦でほぼ焼失、現在は山門と経蔵のみが残されています。
江戸時代、本駒込・駒込エリアには多くの武家屋敷が集まっていました。現在の「駒込」駅の南に広がる「六義園」も徳川5代将軍綱吉の側用人を務めた柳沢吉保の下屋敷にあった日本庭園です。
この庭園は、築山や池が配された回遊式庭園で、吉保は『古今和歌集』の世界観を表現したといわれています。庭園の名前も『古今和歌集』の序文にある「六義」が由来とされています。明治維新後は三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎が購入し、庭園を整備。1938(昭和13)年に当時の東京市に寄贈され、一般公開されるようになりました。
明治時代以降、本駒込・駒込周辺の武家屋敷跡地は住宅地として開発され、財界人や政治家が多く暮らす邸宅街となりました。「加賀藩前田家中屋敷」の跡地、「六義園」から白山通りにいたる「大和郷」はその代表であり、100坪、200坪単位で分譲され、景観に配慮した街並みが作られました。現在も街には歴史ある風情が漂っています。
本駒込・駒込は武家屋敷の庭園用に植木の需要が多かったことから、園芸も盛んに行われるようになりました。エドヒガンとオオシマザクラを交配して誕生したとされるソメイヨシノもこの地で誕生した桜の品種で、駒込のかつての地名である染井村から名付けられました。今も当時の名を残す「染井霊園」には多くのソメイヨシノがあり、春には訪れる人々の目を楽しませています。
本駒込・駒込周辺は文人や画家など文化人にも愛されました。「染井霊園」は詩人の高村光太郎と妻の智恵子、美術家の岡倉天心、文学者の二葉亭四迷など多くの文化人が眠っていることでも知られています。
古くから武家屋敷街として発展した本駒込・駒込。この地には長い歴史が醸し出す風情が街のあちこちに漂います。
- 掲載日
- 2017/03/21
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