【荻窪】文化人に愛された邸宅街、荻窪
大正から明治にかけて、「西の鎌倉、東の荻窪」と称される別荘地となった荻窪。文人や音楽家が多く暮らし、やがて文化の薫りが漂う邸宅街となりました。現在も荻窪エリアには文人ゆかりの地や音楽にまつわるスポットが点在し、当時の面影を偲ぶことができます。
荻窪という名は、かつてこの付近に荻が多く生えていたことに由来すると言います。また、今の「荻窪」駅の西口にある「光明院」は飛鳥時代に行基が造った千手観音像を背負って旅をしていた僧侶がこの地を通りがかった際、突然仏像が重くなって歩けなくなったため、荻を刈り取り安置したことが始まりと伝えられています。
その後、「光明院」は萩寺と呼ばれるようになり、江戸時代には荻窪の観音様として信仰を集めました。江戸市中からも青梅街道を通って多くの人が参詣に訪れていたそうです。
1889(明治22)年に甲武鉄道(現・JR中央線)の「新宿」駅から「立川」駅間が開通し、1891(明治24)年には「荻窪」駅も設けられました。東京都心と鉄道で結ばれるようになった「荻窪」駅周辺では住宅地の開発が始まります。この新しい住宅地は、東京都心から近い別荘地として人気を博し、「西の鎌倉、東の荻窪」と称されるほどの人気を集めました。
また、1937(昭和12)年には公爵で内閣総理大臣を務めた近衛文麿も荻窪に別邸「荻外荘(てきがいそう)」を構えています。この「荻外荘(てきがいそう)」の優美な佇まいが多くの人々に知られるようになったことから、荻窪は閑静な邸宅街という地位を確立しました。
その後、荻窪には版画家の棟方志功、児童文学作家の石井桃子など作家や芸術家など多数の文化人が移住してきました。石井桃子の自宅の一室を使った児童図書館「かつら文庫」は現存し、子どもたちでにぎわいます。井伏鱒二も荻窪に縁が深い文人の一人で、彼の著した『荻窪風土記』には当時の荻窪の暮らしが描かれています。
日本の音楽評論家の草分け的存在として知られる大田黒元雄が暮らした荻窪では、音楽を愛する文化が花開きました。彼の邸宅跡地は今、「大田黒公園」となり、愛用していたピアノや蓄音機などが展示されている記念館もあります。
こうして荻窪は音楽の街としても知られるようになり、名曲喫茶「ミニヨン」には多くの音楽ファンが訪れます。また、「荻窪」駅の近くにある「杉並公会堂」は日本フィルハーモニー交響楽団のフランチャイズホールになり、「荻窪音楽祭」など音楽関係のイベントが開かれるなど、荻窪にはいつも音楽が流れています。
- 掲載日
- 2017/06/30
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