都心部の湾岸エリアでの大規模用地の放出や駅前再開発事業の伸展、タワーマンションの高い購入ニーズなどから、タワーマンションの供給は増加傾向にあります。タワーマンションが住宅購入の身近な選択肢として確立されるまでに、どのような歴史をたどってきたのでしょうか。
日本のタワーマンション黎明期は1970年代
日本で近代的な集合住宅が普及するようになったきっかけは、大正12年(1923年)に起きた関東大震災といわれています。木造住宅が主流だった当時、この震災による全壊・全焼・流出家屋は計約29万3千棟にのぼり、多くの人々が住まいを失いました。このため、政府は震災翌年に財団法人 同潤会を設立し、耐震、耐火にすぐれた鉄筋コンクリート造(RC造)の集合住宅を供給し始めたのです。
その後、第二次世界大戦を経て高度経済成長期に入り、近代的な集合住宅は増加の一途をたどります。一方で、一戸建てにこだわる習慣や地震への不安から高層住宅の需要は高まらず、なかなかタワーマンションの建設には至りませんでした。
建築技術の進歩により、現在のタワーマンションの先駆けともいえる物件が誕生し始めたのは1970年代です。 この頃に建築されたタワーマンションは、それまでにない高層建築物のインパクト、最新設備や斬新な外観等で話題を呼び、タワーマンションのステータス性の礎を築くことになります。バブル~バブル崩壊で都心のタワーマンションが増加傾向に
1970年代にようやく黎明期を迎えたタワーマンションですが、その後の普及にもしばらく時間がかかります。特に、都心部は人口が多く高い需要が見込めるにもかかわらず、日照権や敷地面積確保などの課題があり、建設計画が滞るケースも少なくありませんでした。
それでも、1980年代後半のバブル経済による地価高騰で、不動産市場はどんどん活性していきます。都心では超高額物件が続々と登場し、ステータス感のあるタワーマンションの需要も増え始めます。
1990年代に入ってバブル経済が崩壊すると、今度は地価が下がった都心部の物件に人気が集まる「都心回帰現象」が起こります。この時期は住宅金融公庫の融資額の拡大や、低金利政策でローン金利が下がるなどの好条件も後押しし、都心部における人々の住宅購入熱はますます高まっていきました。
1997年の規制緩和で急増
そして1997年、建築基準法の改正で共用部分(廊下、階段、エレベーターホール、バルコニーなど)が容積率算出上の延床面積に算入されなくなったことと併せて、日影規制の緩和も影響し、タワーマンションの建設に一気に拍車がかかります。
共用部分の一部を容積率算出上の延床面積に算入しなくてすむということは、延床面積に対する住戸面積の割合が高まることを意味します。住戸面積の割合が高いほど事業採算性は良くなりますが、階数が多く内部廊下、内部階段の多いタワーマンションは、延べ床面積に対する住戸面積の割合が低くなりがちでした。しかし、この改正によって住戸面積の割合が高まり事業採算性が改善され、建築計画が立てやすくなりました。
以降、都心部を中心に数多くのタワーマンションが建築されるようになります。同時に機能性、付加価値、安全性などもめざましい進歩を遂げ、タワーマンションの人気は確立されたものになりました。