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2020.01.23

代官山アドレス 同潤会代官山アパート再開発プロジェクト~逆風の中の革命児たち(Vol.3)

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バブル崩壊後に進められた三大再開発事業「代官山アドレス 同潤会代官山アパート再開発プロジェクト」

同潤会代官山アパートは青山アパート(後の表参道ヒルズ)とともに旧同潤会アパートの中でも立地に恵まれた高級系の物件と見られたが、代官山が旧来から持っていたイメージをうまく引き継ぎながら大規模建替・再開発として街に新たな現代的価値を与えた代表的な再開発事例である。

その点で、この再開発プロジェクトは同潤会代官山アパートの建替事業として、「歴史の継承」を強く意識しつつ、代官山地区の面開発として「今日的な価値」を与えることにで、代官山エリアの価値をさらに押し上げることに成功した代表的な再開発事例であろう。

もともと高いレベルにあった立地の価値をより高くすることに成功したという点では、今日多くの行われている都心エリアの大規模再開発における教科書的存在である。

赤池学氏の『代官山再開発物語』には、再開発事業に係わった多くの人の考え方に触れることができるが、特に注目すべき点は、新たな代官山という価値を創るという考え方である。この考えが様々な人や地権者の方々に共有されていた、そう見ることが可能であると思う。

代官山というある意味においては再開発以前から既に確立していた"ブランド"を有していたこの地に、新たな価値をオンしていくというのは、簡単なことではないと思う。一歩間違えれば、代官山のイメージの破壊にも繋がるし、以前から住んでいた人が違和感を持つことなく、新しい住民からも「素晴らしい環境」という評価を得ることは、時として大きな矛盾を克服しなければ達成できないことである。

地権者や権利関係者は総勢600名にも及んだ※1。同潤会代官山アパートは賃貸住宅として供給されその後払い下げによって区分所有建物化した経緯があり、払い下げられなかった一部は東京都が所有していた※2。渋谷区、東京電力も地権者となっており、地権者も多さもさることながら様々な異なる利害を持った地権者の多さもこのプロジェクトが長期化した要因である。

再開発が事業化したのが1983年である。「代官山アドレス」の竣工が2000年であるからやはり20年近い時間を要した。期間が長引くにつれて相続の発生により地権者が増えるという事態にも遭遇している。

渋谷区が増大する電力需要をまかなうために拠点変電所を探していた。そこで面積規模の大きな再開発エリアに白羽の矢が立ったのだ。急遽東京電力の渋谷変電所の設置を受け入れることになった。当然大きな反対運動が起こる。まとまりかけていた合意形成が混乱する。計画で描かれた緑と広場とタワーが混在する開放的な空間と変電施設は相容れない。

協議が続けられ、代官山の地下に変電施設を設けることで決着した※3。東京電力の参画は結局、スポンサーを見つけるという大規模再開発にとって重要な問題をクリアするきっかけになった。

「代官山アドレス」は1999年から分譲が開始され2000年に竣工している。1999年には176戸が分譲され平均坪単価は440.9万円、2000年は高額住戸30戸が分譲されたため坪単価は533.0万円となっている。当時の全206戸の平均分譲坪単価は469.5万円である。

中古事例は2002年以降発生しているが概して高額を維持しており、リーマン・ショック後の2010年までは分譲時の平均坪単価469.5万円を下回ることがなかった。

2013年以降は上昇し、分譲時の坪単価を超え、現在では650万円前後となっている。竣工後19年年を経過したが坪単価が600万円台を下回ることは当面なさそうである。紛れもないヴィンテージマンションの価格の動きである。

代官山は必ずしもお代官様のお屋敷街と言うことではない。その名は諸説起源が語られているが、江戸時代初期の1664年に三田用水が整備されて以降、農地化されたと言われている※4。それ以後は大名の下屋敷が立ち並ぶ「高級住宅地」となっていく。明治維新後に旧大名家や明治の元勲の邸宅が付近に建築され、一気に知名度が上がった。

もともと渋谷川と目黒川に挟まれた台地で、地盤が良いため、関東大震災でも大きな被害を免れた※5。そこに「同潤会代官山アパート」が建築された。同潤会代官山アパートがあったからこそ、渋谷や恵比寿に近い立地にありながら、過度な開発や土地の細分化が行われず、ひっそりとした静かな住環境が維持されたという側面もある※6

しかし代官山が今日(こんにち)獲得している"おしゃれ"なイメージは1969年から建築がスタートした「ヒルサイド・テラス」であることに疑いはない。建築家・槇文彦が設計した。30年以上継続されたプロジェクトは、単に住宅を建設するという開発に留まらず、「ヒルサイド・プラザ」の建設によって、代官山を文化的な街にしたのである※7

このような、街は他にもあると思う。代官山が他の街とは異なるのは、一定の周期で新たな価値観に基づく都市作りが、長い時間の中で連続して行われたことによると考えられる。「同潤会代官山アパートメント」→「ヒルサイト・テラス」→「代官山アドレス」というように、その時の時代背景や新たな考え方を取り入れながら主役を交代させてきた。

しかし、代官山のやり方は、従前のものを消滅させ、新たのものを作るのではなく、"2人"の主役をクロスフェードさせながらゆっくりと「世代交代」させたように見えるのだ。これが結果として、絶妙な街づくりにつながったのかも知れない。

私は「代官山アドレス」という再開発は、先に挙げた2例とは異なり多くの地権者の合意を得なければ成立し得なかった大事業であると思う。そのため他2例と同列に語るのはおかしいのかもしれない。そのような考え方も可能だと思う。

ただ、再開発組合の理事長を務めた谷口壮一郎さんがこのような言葉を残している。

「アパートの住民は『狭くて古い部屋はもうこりごり。今の部屋を新しくしたい』と願って再開発事業を始めたのです。再開発をして何とか得をしようというのは後から出てきたものだと思う。私は平均的な地権者でしたから、再開発をして格別に得をしようとも思わなかったし、損をしようとも思っていなかった。自分たちの資産価値を以前のように回復し有効に使おうとしていただけです」※8

とても切実な心境が表れていると思う。バブル崩壊とその後のデフレがなかったのならこの再開発は成功したのだろうかと考える。バブル期には一戸の資産価値は3億円から4億円と見積もられていた。それがバブル崩壊で半額以下に下がっていった。

このような価値の低下に対する危機感の共有が地権者を一つにまとめる共有意識となった※9。バブル崩壊がなかったら地権者が同じ方向を向くことができただろうか。私は困難であったように思う。であるなら、代官山の再開発プロジェクトは「逆風」を推進力に換えて前進していく帆船の如きプロジェクトではなかったかと思う。

参考文献
※1 赤池学著『代官山再開発物語~まちづくりの技と心』58ページ
※2 同61ページ
※3 同143ページ
※4 岩橋謹次著「代官山」36ページ
※5 同39ページ
※6 同42ページ
※7 同48ページ
※8 赤池学著『代官山再開発物語~まちづくりの技と心』184ページ
※9 同150ページ同
僭越ながら敬称は省略いたしました。

井出武(いで・たけし)

井出武(いで・たけし)

1964年東京生まれ。89年マンションの業界団体に入社、以降不動産市場の調査・分析、団体活動に従事、01年株式会社東京カンテイ入社、現在市場調査部上席主任研究員、不動産マーケットの調査・研究、講演業務等を行う。

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